長野市 唐木田有一氏からの資料
 平成12年3月27日付の封書にて、長野市在住の唐木田有一氏から、小生のホームページで情報収集の件を知ったとのことで、貴重な資料をお送り下さいました。大部ですので全てをご紹介できませんが、その抄録をご紹介します。

「徳本行者の布教の足跡と徳本念仏塔」 長野市誌編纂専門委員 岡澤由往著
    【註】唐木田有一氏「当地の公民館の成人学級の資料で、岡澤先生は古文書や地域の歴史についての第一人者です。」 冒頭部分を紹介します。

 
一、篠ノ井・川中島・更北の念仏塔
川中島町南原の上組・中組・下組には今も念仏講がある。蓮香寺住職さんのお話によると、南原の三組の念仏講は、昔は毎月二十五日、この日は法然上人の月の命日に当たる日である。この二十五日には、講宿で、また講中に不幸があった時は、葬式にそのお宅で徳本行者の姿絵の掛け軸と、徳本直筆の「南無阿弥陀仏」の六字名号の掛け軸を掛けて、大数珠を回しながら念仏を唱えたということである。今は二幅の掛け軸を掛け、大数珠を回す点は変わらないが、葬式のあった夜だけの御念仏になってしまったそうだ。
 南原の三組の念仏講中に伝えられている徳本行者直筆の六字名号の掛け軸は、今から約二百年前、徳本行者が南原の蓮香寺に滞在中の文化十三年(1816)五月十六日、蓮香寺念仏講相続のために、「南無阿弥陀仏」の大幅名号を三幅揮毫してもらったものを、上組・中組・下組の講中が、それぞれ掛け軸にしたものが今日に伝えられているものである。徳本行者直筆の掛け軸は、普段人目につきにくいものであるが、徳本揮毫の「南無阿弥陀仏」の六字を記刻した念仏塔(六字名号碑)は、光林寺(小松原)、蓮香寺(南原)、法蔵寺(戸部)など浄土宗の寺院の境内や、参道によく見かける。
 念仏塔は、篠ノ井十九基、更北十五基、三地区で四十五基ある。この内、文化十三年以前に建立された念仏塔は五基に過ぎない。建立年月不明を除けば、文化十三年(1816)年以降に立てられたもので、中でも文化十三年に建立されたものは十七基と際だっている。この年に建てられたものは、全て六字名号の下に「徳本」の名が記刻されている念仏塔、いわゆる徳本名号碑と言われるものである。


「長野市の石造文化財」
第一集より
77p 二三、念仏塔
 浄土宗では、「南無阿弥陀仏」の六字名号をとなえることにより、誰でも阿弥陀如来の慈悲によって、極楽浄土に迎えられるという他力本願を説きます。
 唱号によって得られるという来迎思想は、真宗の親鸞、時宗の一遍によって全国に広まりましたが、この地方にも伝播普及され、江戸中期から名号塔ともいわれる念仏塔の造立がはじまっています。
 唱号は、百萬遍ともいわれて、(上150)の念仏講中や、(古44)のように僧侶の指導のもとに唱号した記念、(善82)の百萬遍達成、あるいは(鶴31)のように僧侶が一定の期間内に百萬遍唱える螺繰(つぶぐり)という修行の完了を機会に、たてられたと思われるものが多い。
 (妻50)や(善100)など、六字名号の下に「徳本」というのがみえます。これは、帰依唱号を関東から中部地方にかけて説いて歩いた徳本上人のことで、三才のとき、母の背で月の出をみて南無阿弥陀仏と声に出したという逸話を残す傑僧です。徳本の名号塔はいずれも特長ある書体なので、一見してすぐそれとわかります。

同 第二集より

120p 二八、念佛塔

 阿弥陀佛を信じ、「南無阿弥陀佛」を唱えれば必らず極楽浄土に迎えられるという来迎思想は、念佛講の組織、成立、名号塔ともいわれる念佛塔の造立にみられるように、広く各地に伝播普及されました。その盛行さは、この地方が善光寺のお膝元であるにもかかわらず、その地域外にまで及んでいることからも推し測れます。
 総数三十五基のうち、(朝8)以外は文字塔で、(朝126)以下の十三基には、六字名号の下に「徳本」の二文字が刻されています。
 徳本は、宝暦八年(1758)に紀伊国(和歌山縣)に生まれ、帰依唱号を関東から中部地方にかけて説いて歩いた傑僧です。第一集の掲載分をあわせてみますと、行者徳本の化政期における行動の広さがうかがわれます。

同 第三集より

114p 二七、念仏塔

 総数五四基。型はさまざまですが、すべて文字塔です。その中、三三基には六字名号の下に「徳本」の二文字が記刻されています。一、二集の掲載分をあわせてみますと、念仏行者徳本の化政期における普及の足跡と、受容の範囲がおおよそわかります。


「徳本上人御勧誡聞書」について
信濃史学会刊 『信濃』第17巻 第7号 473p 原 嘉藤氏著 
 
【梶田註】詳細な考察がおこなわれていますが、その冒頭部分のみご紹介します。

 江戸時代の庶民信仰のなかで、重要な位置をしめている念仏講は、庚申講・観音講等とともに、庶民、とくに地方の素朴な農民の信仰にはなくてはならない講の一つであった。東筑摩郡誌別篇信仰誌の第三篇に念仏の項があり、建碑された念仏碑の面から若干の考察をしているが、それによると、東筑摩郡内(今の塩尻市・松本市新市部を含む)の碑石数は四〇九基、その内訳は、六字の名号碑が二四二、念仏供養塔とあるものが五九、百萬遍念仏碑が三五、その他となっている。そのうち特に六字名号碑二四二基中の八三基の染筆者は徳本上人である。郡内において徳本名号碑のある村は、塩尻(七)・新(五)・和田(九)・神林(二)・宗賀(五)・山形(九)・今井(五)・島立(四)・洗馬(七)・波田(五)・片丘(五)・広丘(二)・朝日(一〇)・筑摩地(三)・坂北(一)・上川手(五)・笹賀(三)・中川手(五)で、松本市の東部四賀村方面には一基もなく、筑北地方では、坂北村に一基あるのみである。しかし、波田村の対岸である南安曇郡梓川村方面には、また、多く分布し、北信地方では川中島方面にも、善光寺境内(金堂西の植込内)にも建碑がある。
 一方、記事としては、続東国高僧伝・大日本人名辞典・近世風俗見聞集・諏訪藩月番日記・一茶七番日記等に残り、伝承としては、塩尻市塩尻、同宗賀区洗馬、松本市和田等に残っている。徳本の出自から寂滅までの概要は、続東国高僧伝等に述べてあるが、実際には誤りが多く、信用することはできない。また、他の記録は断片的で、その行動の一部しかつかむことはできない。要はそうした徳本の一生の行動を知るよりも、突如としてこの年代にあらわれ、専修念仏を修して、江戸大奥・大名層・庶民層から熱狂的な渇仰を受けた本人の仏力や、地方に及ぼした教化の影響を調べてみたい気がした。彼はいかなる教理と、いかなる説法を通して自己の法域を弘めたか、それを知りたかったのである。ここでは、彼の伝記等には触れず、過般入手してあった資料(「徳本上人御勧誡聞書」)について若干の考察を試みながら、その紹介をしてみたい。
 この資料は、文化一三年六月二三日、松本城下の生安寺に留錫した徳本が、同月二六日、二七日の二日間にわたって説法したときの内容を聞書きしてあったものを、それから二一年後の天保七年四月二九日に、同じ城下の本町一丁目中町入口の山屋増治郎という信者が、紙数四九枚に謹写し、家重代の宝としたものである。専修念仏を中心とする徳本講は、前記建碑のあった地方には、もちろんあったことであろうが、建碑のない地域にもその講中は多かったようである。徳本は松本の城下町に来り、この寺を根拠としてしばしば説法をしたらしく、本文中に、なお、来月十五日にも法筵を開くことが誌されている。(以下略)